メビウスについて本気出して考えてみた(暫定バージョン)

続・ポルノグラフィティ完走おめでとうございます、お疲れ様でした。

そして配信ありがとうございました。

自分の都合で参戦できなかったので本当にうれしかったです。ライブ配信たすかる。

 

で、ライブの感想を書こうかとも思ったのですが。

それよりも新曲に意識を完全に持っていかれてしまったので、その話をします。

 

メビウスもナンバーも、どちらも久しぶりに意味深ポルノグラフィティでめっちゃくちゃいいですね。どっちもいろいろと考える余地があって楽しいです。

今回はメビウスについてあれこれ書いていこうと思います。過去記事からもわかるとおり歌詞を捏ねくり回していきます。

 

 

 

配信だと全曲歌詞表示がなされていたので、新曲も例に漏れず歌詞が表示されました。そこで歌詞を目にした時のあの衝撃よ。

実は前もって一部見ていたんですよ、メビウスの歌詞。それがまさかあのひらがな9割だとは思わないじゃないですか。

わざとひらがなにするっていう技法はよく知られているものですし、ボカロ曲あたりでも不穏な空気を出すために使われがちだとは聞いたことがあるのですが、それをポルノグラフィティがやる衝撃。ポルノってやはり歌詞の字面にまで重きを置いているところもあるし、そういうものだと思っているファンも多いので(自分もそう)、だからこその衝撃。

あの繊細なギターから歌い始めてみたら字幕が全部ひらがなだったんですよ。ぞっとしましたね。血の気が引くタイプの恐怖を覚えました。

 

 

最初は「好きな人(恋愛的な意味で)に殺される」だと思いました。病んでるな~~~~~って思いましたね。

直感的に「(恋愛的な意味で)」って思った理由は、たぶん、先月あたりに読んだ川上弘美の「真鶴」の影響だと思います。

真鶴のネタバレに近くなってしまうのですが、読み終わった感想として「好きな人に手をかけるのを愛と呼んでもいいのだろうか」という疑問があるのですよね。そういう話ではない、ちょっとあるかな?ぐらいの話なんですけれど。「好意」と「憎悪」は紙一重なんて言われることもありますしね。

死って生きている物であればすべてに等しくあるものなので、その平等に与えられた事物に向けての手助け(自殺幇助とかそういう意味ではないですよ)をするのって、愛と呼んでしまえるのかどうか考えてしまったんです。結論は「愛と呼んでしまいたい」に落ち着きました。生物の極限に手を出してしまうわけですからね。

 

「恥ずかしい」「優しく解けば」あたりの言葉選びが妙に情事を連想させるなあと思ったところもあります。あと最近ラブソングがなかったので久しぶりに聴きて~っていう個人的な理由もあります。

愛する人に首を絞められ死にたかった、それに幸せを見出してしまう私を許してほしい、なんかそういう話です。

 

 

で、次は「心中」かなとも思ったわけです。

結構このひらがな表記の影響で「虐待されている女の子」説が多いのは驚いちゃったのですが、自分がそういう発想に至らなかった理由もあります。虐待という言葉が「親から幼い子供への暴行」という印象だから、という前提があるのですが。あ、その説を否定するつもりはないので、あくまでも私の考えとして……。

 

「永遠とは」ってすっごく達観してる気がしません?

チャイムでうちに帰るような小さい子供がそんな達観することあるのかなという違和感があるんですよ。

それと、最初は全部小学一年生の漢字だけが使用されていると思ったのですが、調べてみると「泣」は四年生、反対にひらがな表記になっている「赤」は一年生で習うんですよね(「紅い目」の可能性はある)。もし小学一年生って明確に年齢を定めるのであればそこまで意識するのではないかって気持ちもあります。

ということを踏まえていくと、幼い子供への虐待っていうよりもある程度知識のある人間の心中の方が近い気もしてくるんですよね。

これで、結局「最近虐待のニュースに心を痛めていて……」と明かされる未来がめっちゃ見えるので、深追いはしません。

 

 

ここまで書いといてなんなんですが、今現在超ホットな解釈は以下です。深読みオタクのよくないところが出てきます。

 

あなたが「理想の私」、わたしが「本来の私」かなと。

理想の私に本来の私の息の根を止めてほしい、嫌な部分ばかりの本来の私なんてこの世からいなくなればいいのに、って結構よく思うんですよね。

理想の私は優しくてわたしのお願いも聞いてくれる、それに泣いてくれたけれど、わたしはこの世からいなくなることが嬉しい。

理想の私になりきれなくても、まあ自分自身のことなので、折り合いをつけていかなきゃいけないじゃないですか。だからどんな自分でも好きでいたほうがいいわけです。理想の私のことも好きだったのに、それに対する嫉妬とかそれになれない失望とかがあったら、そりゃあね。自己愛ってありすぎてもよくないけれど、なければないでそれもよくないですし。

 

人前では理想の私を演じているけれど、本来の「嫌いな私」のことも見てほしい、知ってほしいと思うならば名前をほしがることもあるよね……。

 

この解釈に至ってしまったのは、REUNIONが精神世界の話であったことと、「メビウスの輪のように捻じって繋げる」という歌詞から来ています。

メビウスはどちらが作詞したのかよくわからないのですが、もしかして共作もあり得るんじゃないかと思ってしまって。だからREUNIONが出てくるのです。「輪を作って繋げる」ってREUNIONにも出てくるんですよね。そういう理由もあります。

メビウスの輪って、簡単に言えばどちらも表でどちらも裏みたいな、表裏一体みたいなものなんですが、「あなた」と「わたし」が別人だとそれは別の輪になるような気もするんですよね。

自己嫌悪に陥ってしまう私しかいない朝と、理想の私を演じている夜(なんかこれもこれで情事っぽいな)、いずれにせよ私自身は存在しているので、メビウスの輪のようにどちらも表でどちらも裏なひとつの輪になるのかなあと思いました。この部分って、反対に理想の私がいない朝も本来の私がいない夜も、どちらも私自身が存在しないとも捉えられる気もして。私が存在していてもしていなくても、朝は来るし夜も来る。そしてまた朝が来る。永遠ってそういうものですよね。

 

なんというか、こういう「自分自身を他人のように思う」って、突き詰めていくと自己と他者の区別みたいな話になってくる気もしていて。自己と他者の区別がつくのって幼少期なので、それとは正反対の位置にある「自分自身を他人のように思う」のも幼少期のような気持ちとなってもおかしくないのかな、と。うーん、うまく言葉にできない……。

 

ただこの解釈もなーんかしっくりこないところはあります。

だって披露された時に昭仁さんが「今届けたい言葉」って言ってましたからね。メビウスを難解にしているのってそのMCの影響もめちゃくちゃあると思っています。

 

 

ほんとーにわけがわかんねーぜポルノグラフィティ