「やがて哀しきロックンロール」にクソデカ感情を抱いている

やがて哀しきロックンロールに極大感情を向けているオタクなので、軽率に長文を書いてしまう。
考察だの検証だの歌詞の意味解説だのそんな大層なものではないので、折りたたんでおきます。

 

 

そもそもの話、この「やがて哀しきロックンロール」っていうワードは村上春樹の「やがて哀しき外国語」から来ていると心の底から思っていたけれど、やがて哀しき外国語を読んだことがないのでなんでそう思い込むようになったのかが謎。

いや私ぐらいの新藤ヲタになれば村上春樹好きだしそりゃそうよ。ぐらいになるんだけど、いま改めて見つめなおしてみれば、発売当時やがて哀しき外国語が話題になるかなにかあったっけ……?ってなるんだよね。

当時の私は何を考えていたんだろう(もう当時のツイッターアカウントは残っていないのでまじで検証のしようがない)。

そこに言及しているブログはあれど、大変申し訳ないながらも当時読んだ記憶がないので、たぶんツイで話題になるか何かしらがあったのだとは思う。

「いやいや、ただ単純に2012年当時新藤晴一がやがて哀しき外国語を読んだだけでしょ」と言われたらそれまでである。

 

新藤晴一は歌詞を書くときに「どうしても1番は説明になってしまう(ウルトラスーパー意訳)」って言っているので、まあたぶんこの曲もそうなんだろうという前提で書くんだけど、「時に掉させば流されて遠ざかるばかりの人よ」は自分の中である程度固まった解釈がある。のに、そこに続く「涙も実にきれいね思い出はまた飾られる」で一気に意味が分からなくなる。

「時に掉させば~」が時流という波に乗っている人だとしたら、それはつまり普遍的なロックから遠ざかるものなんだろうし、そういうイメージで聴いていたのに、「涙も実にきれいね~」で「????????」ってなる。前後で整合性がないのでこの解釈ズレてんのかな。

余談。かれこれ15年くらい前のカフェイレで「『綺麗』という漢字の字面がきれいで好き」って話していた割には、この人の文章に出てくるのは「綺麗」ではなく「きれい」が多い気がする。

(追記:2億年ぶりに自宅にて(以下略)を読んだところ、あとがきにて何度も「奇麗」と表記していました。そのラジオの時期とあとがきの日付が近いため、「綺麗」ではなく「奇麗」のことを言っていたのかもしれません)

 

自宅にて(以下略)で歌詞の字面について書かれていたのがすごく印象的で(自宅にて(以下略)ではアポロの「変わらない愛のかたち」って部分を挙げていたと思う)、深読みヲタクなので彼の書いた歌詞の字面にまで意味を見出してしまうところがあるわけで。全然関係ないけれど「いみをみいだす」ってなんか文字入力すると頭バグるね。

久しぶりにやがて哀しきロックンロールの歌詞を見たんですけれど、夢(きみ)と君が同じ歌詞の中に共存しているのが面白いなあって思ったんですよね。

素直に音の通り夢と君が同じものでもいいのだろうし、字面の通り別物でもいいってことなのかもしれない。そういうところがBig loveです。

 

字面の話が続いて申し訳ない。以前たしかツイッターで「少年をたたせたのは」の「たたせたのは」が平仮名なのは立たせた勃たせたのダブルミーニングっていうのを見かけて、それも面白いなあって思った。その後に続く歌詞から勃たせたってワードは予測できるけどね(急に上から目線になるな)。

 

これはこの曲に当てはまるか自分でもわからない話ですが。

この世にある曲の歌詞って、AメロBメロサビ……みたいに分けたときにAメロはこういうことを書く!Bメロはこう!サビはこう!って曲の構成ごとに文脈が分かれているということが多い気がしている。Aメロに書かれた文章がたとえ途中でもBメロでは話が変わる、みたいな。AメロBメロでは話が繋がっていたけれどサビで話が変わる、みたいな。

彼の歌詞って、普通にBメロとサビで文脈が繋がっていることとかけっこうあるなあって思ったんですよね。どの曲でそう思ったのかは忘れましたが。(追記:もしかしたらギフトのことかもしれない)

 

で、2番サビなんだけど。

この部分って昔からずっと変わらない「汚れた手でギターに触れていないか」「時折外の世界を様子見したくなるけれど、そうなったらまたぎゅっと目を瞑りなおして夢を見続ける」みたいなことなんだろうなあ、と。

ポルノグラフィティというロックバンドの存在を大切に扱う姿勢は、その表現方法は変われど、今も昔も(この曲はもう10年近く前のものだが)変わらないことにすごく安心する。

 

Cメロの「少し苦くなった酒」にも想いを馳せているヲタク。

他人のほうがよっぽど成熟した人間に見えることなんてザラで、それを痛感してしまうと自分はなんでこんなにも未熟なんだろうと思ってしまうよね。

若かったうちは楽しかっただけのものでも、酸いも甘いも経験してしまったらまた別の味を感じてしまうわけよ。

新藤少年のロッカーへの憧れがまだ青い時代のものだったとしたら、というか青い時代のものなんだけど、年齢的に大人になった自分がそのロッカーになっているのだとしたら、そりゃあ言い方は悪いけれど「未熟な夢を見続けたまま大人になってしまった」とも思ってしまうわな。

ロックへの青い憧れはプッシュプレイの「あのロッカーまだ闘ってっかな?」から、VSの「あの少年よこっちも戦ってんだよ」までつながっていくので、その気持ちがこれだけの有名バンドになっても変わらないことにすらも安心を覚えてしまう。

プッシュプレイもやがて哀しきロックンロールもVSも作詞作曲新藤晴一なのがいいですね……(拡大解釈オタク)。

 

ここまでロックロック言っといてアレなんだけど、曲調自体はロックではなくテクノ寄りなのもすごくポルノっぽいなあって思ってしまうんだよ。

これでガッチガチのロックだったら、説得力が強すぎて街頭演説みたいなさ……選挙カーみたいなさ……そういう臭さ(大変失礼な表現)が出てしまう。説教臭いというかね……。

 

 

極限オタクなので長々書いてしまった。
またいつか生でやがて哀しきロックンロールを聴ける日が来ますように。